雑記㉔

原爆の話②

前回の続きです。

熊本の実家に帰ってきた父は、そこで終戦を迎えます。

戦後、何度か長崎の造船所から戻ってくるようにと連絡があったそうですが、父はかたくなにそれを断りました。

帰りたくなかったのは、二度と思い出したくない光景のせいではなかったのかと思っています。

父は、その後、祖父が働いていた船会社に就職、客船の船長として定年まで勤めました。

私が子供の頃、少し目立っていた火傷の跡は、だんだん薄れていきましたが、父の心の傷は癒えたのかは分かりません。

放射能の影響がどれほどあり、それは父のガンの発症に影響があったのか、さらにはその息子である私、そして私の子供たちにこれからどう影響するのか?不安だけが残ります。

もう一つ不思議な縁があります。8月9日の原爆によって狂わされた父の人生ですが、この日母は満州にいました。この8月9日は、ソ連軍が満州に侵攻した日です。ソ連軍が攻めてきたわけですから、母は、家や財産を捨てて、決死の思いで日本に逃げ帰ってきました。

二人にとって、人生で一番大変な一日だったのです。この8月9日が二人の人生を変えたのです。そして、この日のおかげで二人は出会うことになったのだと思っています。

この原爆体験は語り継ぐべきものであると思っています。ところが被爆者の大半がすでに亡くなりました。また、私の父のように語ろうとしない者も多くいたのです。

事実として忘れてはいけないことがあります。どんな事態であっても使ってはいけない核兵器を使った唯一の国がアメリカであること。そしてその唯一の被爆国になったのが日本であることです。

今できることは、父の「原爆手帳」(被爆者だと認められた人に交付された手帳)を調べて、被爆した場所の確認だけはしておきたいと思っています。