雑記㉒

ちょっと思い出してみると⑦

中学校での教師生活は嫌な思い出ばかりではありません。

新米の英語の先生になった私は、今では考えられないことをやりました。

私の田舎は港町で、小さな外国船が入港するのです。私は、行きつけの喫茶店でイギリス人の船員さんと友達になったのです。

恐いもの知らずだった私は、その船員さんに頼んで中学校に来てもらいました。もちろん、ネイティブの先生など皆無だったその頃、活きた英語を生徒たちに聞いてほしかったのです。

校長先生や教頭先生に何も言われることなく、周りの先生たちも友好的だったことを考えると、いい時代だったのかもしれません。今なら、外部の人を教室に連れてくるには、許可がいることでしょう。

もう一つやろうとしました。

それは、親父に中学校で講演をしてもらえないか頼んだことです。

何について語って欲しかったのかというと「原爆」の体験談です。私の父は、爆心地に近い場所で被爆しました。右手と左足に火傷の跡が残っていました。

私は一度も父の口から被爆時のことを聞いたことがありませんでした。母が父から聞いた話を断片的につなげるしかなかったのです。

その時のことを中学生に話して欲しいと頼んだのです。

すぐには、返事がもらえず、やっと2か月後に父は「話そう」と言ってくれました。

ところが、その時には私のほうが恥ずかしさを感じてしまい、父の中学校での講演は実現しなかったのです。

その二年後、喉頭ガンにかかった父は声を失いました。さらにその一年後に他界してしまいました。

私に何も語ってくれなかったのは、思い出したくない悲惨な情景を目にしたからでしょう。

進行の早かったガンに医者は首をひねりました。被爆の影響があったのかもしれません。

父に直接聞けなかったことを、私は今でも後悔しています。